合理的な愚か者の好奇心

団塊おじさんの "見たぞ! 読んだぞ! 歩いたぞ!"

深川二中中央委員会運営規則改正事件

深川二中に関連する思い出として、もうひとつだけどうしても記録に残しておかなければならない事件があります。
今回はちょっと長くなりますが、お正月特集とおぼしめされて、がまんして最後まで読了されることをお願いいたします。

それは、いわゆる「中央委員会運営規則改正事件」と呼ばれる事件の顛末でございます。
私は、何を隠そう、事件の当事者の一人ではありますが、もはや記憶している者が極めて少なくなってきたことでもあり、歴史の証言者の責任として極力客観的に記述してまいりたいと思います。

さて、この事件が発生しましたのは、昭和38年の10月頃ですから、私が中学3年生、高校受験まで残すところ4ヶ月程度と迫っていた頃のことであります。
「中央委員会」とは何ぞやと申しますと、1~3年の全クラスの学級委員1名づつと、文科系・体育会系各クラブの部長たち(オブザーバー)で構成される、深川二中の生徒会が主催する最高意思決定機関であります。執行機関の生徒会に対して、議決機関に相当すると考えていただければいいと思います。
この中央委員会は、私の記憶では、月に二回ぐらい開催されていたと思います。前回の「深川二中の弁論大会」でも書きましたが、この時期のこの中学の生徒は、議論好きな生徒が異常に多かったのです(議論というよりはむしろ、野次が好きだったというのが正確かもしれません)。したがって、この中央委員会での議論も、大した議題ではなかったとしても、白熱した議論になってしまいがちで、気がつくと、とっぷりと日は落ちて、夜の八時や九時になることも珍しくなかったのであります(今回も老婆心ながら言い添えておきますが、塾通いの生徒などほとんど存在し得ない時代だったため、何のトラブルもございませんでした)。
そして、こうした白熱した議論を演出した発言者たちは?と申しますと、各クラスの学級委員からの発言は極めて少なく、圧倒的に各クラブの部長たちからだったのであります。
ところが、一方で、議決権は学級委員のみが持つという大いなる矛盾がありました。
わかりやすく要約すれば、海千山千の各クラブの部長たちが、口角泡を飛ばした大議論を行った後に、最後の採決だけは、それまでほとんど発言していなかった学級委員だけで行われるのです。
この理不尽な中央委員会の運営に義憤を感じた一部の文科系クラブの部長たちが、この運営方法の改善を提案することになりました。すなわち、学級委員以外に文科系・体育会系の各部長にも議決権を与えようとする提案です。手続きとして、中央委員会運営規則改正案を、文科系クラブ部長3名の連名で中央委員会に決然と提出したのであります。皆様お見込みのとおり、そのうちの一人が私であります。

後でわかったのですが、この規則改正は、深川二中の歴史上初めてであることはもとより、生徒手帳の冒頭に印刷されている規則を書き換えるという前代未聞の大事件であったのであります。
中央委員会の議論は、当然、いつも以上に異様な興奮を伴う白熱したものとなりました。白熱と言っても、わずかに提起される反対意見は、我々文科系クラブの部長たちのいつもの激しい舌鋒に蹴散らされ、たしか最終的な採決結果は、23対3のような圧倒的な票差で可決されたのであります。

率直に申しまして、ここまでは大した話ではありませんで、晴れの年頭を飾るべきブログとしましては、つまらない話で、恐縮なのでございますが、お立会い!!面白くなるのは、実は、この後の顛末なのであります。
すなわち、この後、我々首謀者である文科系クラブの部長たちをあっと言わせるほど、事件は驚天動地の展開を見せることとなるのであります。

思わせぶりはやめて、単刀直入に顛末を説明します。
まず、この中央委員会の採決結果は、どういうわけか教師たちを震撼させることとなり、すぐに職員会議で問題とされ、激しい議論となったようであります。
今考えると、何が悪かったのかさっぱり理解しかねるところですが、当時の封建的職員会議としては、おとなしく管理されているべき生徒たちが、教師が決めたルールを変更して反乱を起こそうとしていると理解してしまったようなのであります。

彼ら教師たちが、次に取った行動も我々が全く考え及ばない種類のものでございました。
なんと!学年主任と副主任数名の教師が手分けして、提案者の我々と、賛成した二十数名の学級委員を一人づつ職員室に呼び込んで、切り崩しにかかったのであります。
すなわち、一度中央委員会で議決された議題を再度議決しなおすという乱暴なものです。その論拠は、どうやら、「クラブの部長たちには、提案権がない」という主張だったと思います。
しかし、我々が最も驚かされたのは、切り崩しをかけられた学級委員たちが、あれよあれよという間に、あっさり反対に回ってしまったことです。
最終的には、再度の採決が行われ、否決される結果となってしまいました。また、この再議決が行われた中央委員会からは、クラブの部長たちには、それまで認められていたオブザーバーとしての参加資格も逆に剥奪されるというおまけつきでございました。
我々としては、怒るよりも何よりも、ただただ呆然としていた記憶が残っております。本音では、指呼の間に迫っていた高校受験の方に関心が移ってしまったような気もします。

私にとっては、この事件も弁論大会以上に私の性格形成に、かなり深いところで影響を与えているような気がします。
この事件によって我々は、「一度成立した採決を一人一人の切り崩しによって、ひっくり返す」という、どの社会科の教科書にも書かれていない超裏技を峻烈な形で突きつけられ、学ばされ、脳内のロムにくっきりと焼き付けることができました。かかる意味で、当時の学年主任の教師の皆さんには、本気で感謝しております(もちろん、反面教師としてですが)。

さて、最後に、この種の事件は、今後の世代では100%起こりえないということについて、申し上げます。
なぜかおわかりでしょうか?当時の級友たちと話す機会があると、その理由について、見解が完全に一致してしまいます。
当時の我々高校受験生にとって、高校受験の制度は、試験日におけるペーパー試験一発勝負だけでありまして、教師がつける内申なるものはほとんど合否に関係なかったのであります。すなわち、教師といかなる対立関係になろうとも、高校受験で不利益な取り扱いを受けるということが有り得なかったわけであります。
わかりやすく申せば、今我々のこの事件を起こせば、当然、学校推薦も受けられず、内申によって志望校への進学を閉ざされるという理不尽な結果となるわけであります。

ここまで思い出してやっと気がつきました。
私たち団塊おじさんは、歴史上二度とないような、本当に奇跡のように恵まれた時代を生きてきたような気がしてきました・・・・