合理的な愚か者の好奇心

団塊おじさんの "見たぞ! 読んだぞ! 歩いたぞ!"

吉永小百合のお父さん

小百合のお父さんについては、諸説紛々で本当のところがよくわからなかったのでありますが、コメント欄に投稿いただいた「いちはつ」さんからよい本のご紹介をいただきました。
関川夏央著「昭和が明るかった頃」(文春文庫)です。題名からは「三丁目の夕日」的ノスタルジー狙いの小説かと思いきや、なんと昭和30~40年代の日活映画全盛時代の吉永小百合クロニクルとも言うべき「純正おたくルポ」で、おもしろくはありませんが史料価値は絶大な読み物でありました。
以下の私の記事につきましては、この本にかなりの部分の情報を頼っており引用もさせていただきましたことを、まずお断りしておきます。

小百合のお父さんは、吉永芳之、1910年生まれ、ある意味で大変波乱の人生をたどった人です。
小百合の母親、川田和枝とは昭和13年に大恋愛の末に、結婚しています。恋愛時代の和枝のラブレターが後年偶然から流出してしまい、昭和48年「女性セブン」に掲載され大きな反響を呼んだこともありました。
吉永芳之は、薩摩士族の末裔、鹿児島の旧制七高から東大法学部法律学科に進学、昭和10年卒業、高文試験には失敗。法学部政治学科に学士入学して高文試験に再挑戦するも、再度失敗。卒業後、九州耐火煉瓦に入社したものの一年で退職、翌昭和12年、外務省通商局の嘱託になりました。ここいらへんは、ちょっと不可解な行動です。
この頃、和枝と結婚したと思われますが、実際には外交官などではもちろんなく、役所の雑用に従事する薄給の嘱託員だったようです。
その後、昭和18年、日本出版会という統制団体に転職します。そして終戦。戦後もしばらく日本出版会に在籍した後、友人と共同で出版社を起こして「シネロマンス」という雑誌を創刊しますが、すぐにつぶれてしまい、その結果一時期吉永家は家財を差し押さえられたこともあります。

Sdsc00719_r1 要するに、小百合は一時期「東大法学部卒の元外務官僚の娘」と言われていたこともありますが、現実の父親の人生は、かくのごとく思うに任せないことばかりだったようです。
昭和31年小百合がデビューすると、小百合の事実上のマネージャーとなって、娘を守り管理しようと必死になります。そして、「吉永小百合事務所」の社長に納まりファンクラブ誌「さゆり」の編集などに精を出しておりましたが、昭和48年8月3日の小百合と15歳年上の岡田太郎の結婚によりすべてを失うことになります。
小百合は結婚後一年近く芸能活動を休止します。再開した時、彼女はあらためてマスコミ宛に、既に一年半前に吉永事務所を退社していて父親とは何の関係もないことを通告します。なぜなら、所属タレントが一人もいない事務所を、父親は閉じないどころか、毎日出社し続け、あたかも小百合のマネージメントを引き続き行っているかのごとき行動を取り続けたからであります。

小百合と別れ、傷心の父親は、その後「ピーターパン」という名前の製パン工場と小売店を始めますが、これも成功しませんでした。
以上でお分かりのように、小百合のお父上吉永芳之は、その一生すべてが、ただひたすら挫折に次ぐ挫折、失敗に次ぐ失敗の、ものすっごくかわいそうな人なんです。
小百合という稀有な美貌と天賦の才能を持った娘に恵まれた一事をもって、彼の不幸は十分償われていると私だったら言いたくなるのですが、まぁご本人にとってはとてもつりあわないと言うんでしょうね。
父親のマネージメントは、小百合にとってはどうやら押しかけ仕事だったようで、大迷惑というのが本音であり、基本的にはデビュー以来小百合と父親は相当の不仲であったことが推測されます。
とりわけ、両親の大反対を押し切っての小百合の岡田太郎との結婚以降は、決定的な不和となり、行き来さえもなくなってしまったのはご承知のとおりです。

平成元年9月11日、吉永芳之は脳梗塞により79年の生涯を閉じています。
父親が亡くなる一年ほど前から、父と娘は和解したとも伝えられています。

この父娘の関係については、一般論として、もう少し書きたい事がございますので、次回に続けます。