合理的な愚か者の好奇心

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芥川龍之介の生家

200pxakutagawa_ryunosuke_photo都立両国高校に学んだ学生たちにとって、全員がもれなく誇りとする先輩はただひとり。芥川龍之介だということは、既に何回も書きました。
この芥川龍之介の生まれた場所が意外な場所にあります。
現在の中央区明石町10番、聖路加病院の敷地内となります。

芥川龍之介明治25年(1892)3月1日、父新原敏三が経営する牛乳販売会社「耕牧舎」で生まれました。牛乳販売会社と言っても、普通の牛乳屋さんではありません。なにしろ、乳牛の牧場があったそうですから。聖路加病院の創設はその10年後ですから、ひょっとすると、「耕牧舎」の跡地に聖路加病院があるのかもしれません。

「耕牧舎」はもともとは、あの会社設立王と渾名された実業Sdsc00272渋沢栄一が興したもので、当時日本の牧畜業が不振であることを憂慮した渋沢は、明治12年神奈川県から箱根仙石原に土地の払い下げを受けると、牧場「耕牧舎」を開き、牛乳販売に乗り出しました。そこで働いていたのが、龍之介の父新原敏三です。
渋沢の信頼を得ていた敏三は、販路拡大のために東京方面の販売管理責任者となり、築地入船町に本店を置いたのが龍之介の生家というわけです。
今、聖路加病院にたたずみ、約106年前に牧場であった時代のよすがSdsc00273 を探しても、もちろん見つけられるわけがありません。
「耕牧舎」の事業は、順調に発展し、龍之介の生まれた頃の父敏三は、業界の長老格になっていました。ところが、龍之介が生まれてまだ七ヶ月しか経っていない時に、突然母親ふくが発狂します。

このため、龍之介は母の実家の芥川家に引き取られます。
場所は本所区小泉町15番地(現在の墨田区両国3-22-11)です。この地で龍之介は多感な少年時代と青年時代を過ごすことになります。住Sdsc00282 所を地図で追うと、現在はほぼ京葉道路沿いの北側、回向院のすぐそば、JR両国駅まで歩いて5分の至近距離であることがわかります。
幼稚園は回向院の隣にある江東尋常小学校付属幼稚園、小学校は今の両国小学校の前身の江東(なんとこれは「こうとう」とは読みません、「えひがし」なんだそうです)尋常小学校、そして府立三中(都立両国高校)までは歩いてもわずか15分程度の便利な場所に家があったわけです。生家とおぼしき場所にはご覧のような碑がありました。

龍之介十一歳の時に、精神病の母が亡くなったため、翌年叔父の芥川道章の養子となり、芥川姓を名乗ることになります。
芥川家は、江戸時代、代々徳川家に仕え、雑用や茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家柄だそうであります。

龍之介は、生後七ヶ月で母の手を離れ、伯母のフクに育てられたため、母親とはほとんど会えなかったと思われますが、「母親が狂ったために母親の実家に預けられる」という境遇が龍之介少年にとって如何ばかりのものであったか。想像を超えたものがあると思います。
夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読んでいただければ容易におわかりいただけると思いますが、当時の精神病患者に対する社会的な差別というものは、それはそれは過酷で激しいものだったと想像できます。
こうした環境のもとで龍之介少年は、回向院そばの実家から江東橋の府立三中まで、どのようなことを思いつつ、日々通っていたのか。

そんなことを空想しながら、芥川龍之介生誕地でしばらくぼ~っとしたいい時間を過ごせました。