合理的な愚か者の好奇心

団塊おじさんの "見たぞ! 読んだぞ! 歩いたぞ!"

岡城趾がすばらしい!!

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あまり旅行などしない私ですが、珍しく遠出をして、九州大分空港から湯布院で湯治、そして久大本線豊肥本線を乗り継いで、豊後竹田に行って来ました。
帰路、大分から空港までのホバークラフトがいつの間にか廃止になっていたのにはあわてさせられました。(営業不振と部品不足で昨年の9月に廃止になったそうです)

そして、今回私が語りたいのは、豊後竹田で下りて徒歩30分、岡城趾のすばらしさについてなんです。
今まで私は城の残っていると失われているとにかかわらず、ずいぶんたくさんの城跡やお城を見てきました。ちょっと思い出しても、高知城、熊本城、姫路城、青葉城名古屋城大阪城、そして忘れちゃ行けない江戸城etc・・・・
こうしたあまたの名城が全国にひしめく中で、今回旅した豊後竹田の岡城趾は文句なしに最高だと思いました。

そもそも岡城趾とは、江戸時代、岡藩主中川氏の本拠地だった城の跡。典型的な山城で、渓谷が深く、切り立った地形に石垣が大変美しく映える。お城は明治になって取り壊されてしまったので、今は石垣のみが往時の姿を伝える。
渓谷が深い分本丸への道筋は、大変急坂で登るのがしんどいが、登るまでの苦労は本丸でのすっばらしい景観によって充分に報われます。

城趾は滝廉太郎作曲「荒城の月」のモデルとされ、本丸跡の近くには廉太郎の銅像が建っている。滝廉太郎は、少年期の一時期(12歳~14歳)を父親の転勤の関係でここ竹田市で過ごし、そのイメージを元に「荒城の月」を作曲したと伝えられる。
竹田市には「滝廉太郎記念館」があり、名誉館長はなんと故筑紫哲也氏だったそうな[E:sign03]なぜかと係員に聞けば、「廉太郎の妹のお孫さん」であるそうな。なんとなんと筑紫哲也は廉太郎までわずか4親等の近さの親族なんです。
稀代の音楽家の遺伝子が、どのような脈絡のもとに稀代のジャーナリストの遺伝子に乗り代われるものなのか、はなはだ興味深い。

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話を元に戻して、岡城趾のすばらしさについてです。
いかに「急峻な山城だからして景観がすばらしいのは当たり前」と説明されても、上から見晴るかす城下町や山並みの感動は不思議に思えるほど尋常のものではありません。他のお城では全く感じられない性質のものに思えます。

Sdsc00113 なぜだろう[E:sign02] としばし熟考・・・
わかりました[E:sign03]
急峻な本丸までの道すがら、ほとんどすべての場所が優れた景観を提供する自然の展望台みたいなものなのですが、要するに展望できる場所の全てに柵がないんです[E:sign03]
ちょっとふらついたら真っ逆さまに渓谷を転落していく恐怖と裏腹な場所ばかりなんですよ。
岡城建設後数百年が経っているわけですが、酔って落ちたか、めまいで落ちたか、子供が遊んで落ちたか・・・何人かは落下しているはずです。
東京ではセキュリティーの面から、絶対に許されない観光スポットだと思いました。
しかし、このちょっと危ないスリルが岡城趾の景観から得られる感動のかなりの部分を占めることも事実であり、人間の感興など本当にやっかいなものだと思わさせられます。
このスリルによる情動の興奮という効果は、ひょっとするとメジャーリーグの観客席のフェンスが、日本のフェンスに比べてほとんど無きに等しくセキュリティーを犠牲にすることによって感動が深まることと同じことなのかもしれないと思わさせられました。

[城取り壊しの経緯]
なぜ岡城が明治になってから取り壊されたかについては、以下の通り。
明治2年版籍奉還後、明治4年277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住。
明治7年、城の建物は大分県による入札・払い下げで全てが取り壊されたそうである。
おそらく大分県としては「管理しきれないから、お城は壊して売りやすくして払い下げてしまおう」と思ったのではないでしょうか。今では考えられない大ざっぱな判断です。


[竹田市内を歩いて一番驚いたこと]
市内をそぞろ歩いていて、一番驚かされたことをご紹介します。
中学生・高校生がみ~んな、町で市民のおじちゃんやおばちゃんと会うたびに、きちんと帽子を取って挨拶するのです。これにはびっくりさせられました。
まぁ、それだけ町に人口が少ないのかも知れませんが、東京では絶対に考えられません。第一、東京では脱いだ帽子をかぶり直す暇がないほど、都民達が町に出ていますものね。
茶店でおばさんに「誰が教えるの。親ですか、学校ですか?」と聞いてみると、「いやぁ~、誰が教えるわけでもなく、自然にだよ。」とのことです。
いよいよびっくりです。
一説には、城下町では今もこのような伝統が受け継がれている地方が多いとも言われますが、東京人には感動的な光景でした。