合理的な愚か者の好奇心

団塊おじさんの "見たぞ! 読んだぞ! 歩いたぞ!"

君は魁傑を覚えているか

Kaiketsu

稀勢の里がようやく初優勝、横綱に昇進して、全国の大相撲ファンは大喜び。相撲人気はわが世の春で、連日の満員御礼。どなた様もご同慶の至りでございます。
こうした能天気な相撲人気を見せつけられておりますと、私はいつもあるひとりの孤高の名理事長を思い出さざるを得ません。
今を去るたった6年前、2011年の2月に発覚いたしました大相撲八百長問題。この問題に現役の時の相撲同様、決して逃げずに正面から取り組んだ快男児、名大関魁傑、すなわち2010年8月から1年6か月理事長として取り組んだ放駒理事長であります。まるで八百長問題を解決するためだけに理事長になったように見えるほど在任期間は短かかったんです。そして、八百長問題を解決すると、理事長を潔く退任し、その後わずか2年後、力尽きたように亡くなったのです。わずか66才でありました。
放駒理事長時代にはどういうわけか大相撲の歴史上稀有なほど、難題が重なります。たとえば、相撲協会公益法人化、これが八百長問題とシンクロして公益法人の認可が得られないのではないかという議論さえ交わされました。さらに、年寄名跡の協会一括管理問題。いずれもこの時期だったのです。
八百長問題の嵐吹きすさぶ最盛期には、関係力士たちの事情聴取を経て19人引退勧告または解雇通告。2011年春場所は開催中止、地方巡業はすべて中止。やっと開催した本場所もテレビで見ていてはっきりわかるほど連日空席が目立ちましたね。こうした四面楚歌の状況にじっと耐えながら、魁傑はたった一人で弁護士と調整し、理事会の意見をまとめ、記者会見での説明もたった一人でしのぎ切りました。親方衆からは猛反発を受け、孤高の理事長と言われました。
私は当時職場が両国国技館のお隣であったこともあって、問題解決のために必死に奔走する魁傑と何度も遭遇しました。私とすれ違う時の魁傑の姿はいつも全く同じ印象的なものでした。すなわち、現役時代に痛めたのでしょうか、左足をひきずり、前かがみでひたむきなものでした。自分の置かれた孤高の立場にじっと耐えながら、一切弱音を吐くことなく、お見かけする時はいつもおひとりでした。そして、いつもJRで電車通勤し車は使わない律儀な仕事ぶりでした。

当時は、相撲協会公益法人化の却下、ついには大相撲の消滅まで週刊誌等で当然のように議論されていたのです。
そして、魁傑はまるで問題解決に至るまでの相撲関係者の轟轟たる不満とたった一人で心中するかのごとく消えていきました。
我々相撲愛好者は、現在の大相撲の隆盛を寿ぎながらも、魁傑が身を捨てて再建したことを未来永劫決して忘れるべきではないと思います。