合理的な愚か者の好奇心

団塊おじさんの "見たぞ! 読んだぞ! 歩いたぞ!"

馬上の若武者

久しぶりに時間厳守子さんの「雑学通信」からの転載です。
他人の転載をしている時間があるならば、自分の記事を書け、とのお叱りが聞こえるような気がいたしますが、まあまあそう仰らずに、お読みください。かっこいいですよ~[E:#x2757][E:#x2757]
私は、この文章をすべての「ちょっとくたびれたシニア」に捧げます。では、以下転載です。

井筒俊彦全集第一巻「アラビア哲学」(慶応義塾大学出版会)にはさ
みこまれている月報第1号(2013年9月)に掲載されている中沢
新一氏(宗教史学者)の文章「馬上の
若武者」で以下のような感動的な
一節に遭遇したので紹介させていただく。ここで中沢氏は井筒俊彦
「騎士」として讃えているのだが、自分自身の自慢も少ししている。
しかし、それはどうでもいいのであって、筆者はこの一節を「老い」
というものを考えるにあたってのヒントとしたいと思うのである。

「騎士はこの世の常識に逆らって、苦しみながら、真理の源泉に接近
してい
こうとする。その泉に触れ、泉の水を飲んだ者は、原初の意味
を喪失し、歪み、劣化してしまった世界を、もう一度よみがえらせ、
若返らせる力を与えられる。騎士とは世界を初期化しようとする探究
者の呼び名であるが、泉の水に触れんことを求めているうちに、自分
自身が劣化しない存在であることを保ち続けることができる。それゆ
えに騎士はたとえこの世で齢を重ねたとしても、いつまでも「馬上の
若武者」なのであり、それが「青春 juvénilité」の原義である。」