合理的な愚か者の好奇心

団塊おじさんの "見たぞ! 読んだぞ! 歩いたぞ!"

ああ彰義隊

Sdsc00036 慶応4年(1868)正月、徳川慶喜大政奉還後、鳥羽伏見の戦いに敗れて、大阪から海路江戸へ逃げ帰ります。その後、有栖川宮熾仁(たるひと)親王を総督とする明治新政府軍が江戸に向かいます。慶喜は上野寛永寺で恭順蟄居します。3月、勝海舟西郷隆盛の巨頭会談の結果、江戸無血開城が決まります。
徳川家の処分が官軍の間で議論されている一方で、和平に不満を持つ旧幕臣の一部が彰義隊を結成し、上野寛永寺に立てこもります。
慶応4年5月15日早朝、大村益次郎指揮の東征軍が、上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を仕掛けます。世に言う上野戦争です。
彰義隊三千人に対して、新政府軍はなんと7倍の二万の軍勢、圧倒的な戦力差に加えて、午後になると新政府軍はアームストロング砲を運び込み、寛永寺山内に打ち込みます。午後2時、激戦の末たまらず広小路口からの黒門が突破され、開戦後11時間で戦況は決定的なものになります。

Sdsc00028 官軍は、彰義隊に対して容赦のない厳罰で臨み、死体の後片付けさえも許さなかったと言われています。遺体はそのまま雨の中を数日放置され、悪臭が漂い始めました。市民たちはその痛ましさに目をそむけ、鼻をふさぐ状況だったようです。
こうした悲惨な状況を見て、官軍の目も気にせず、敢然と彰義隊の遺体収容に立ち上がったのが、三ノ輪円通寺の住職仏磨和尚と有名な新門辰五郎らでありました。現在、上野の西郷隆盛像の裏にある山岡鉄舟筆になる「戦士の墓」は、その時の彰義隊隊士の遺体の火葬場跡です。(写真でご覧のとおりどう見ても「戦死の墓」としか読めないんですよね。変ですねぇ。)
Sdsc00030 激戦地となった黒門はこの時の縁で、写真のとおり、現在は三ノ輪の円通寺に保存されています。ご覧のように黒門とはあまり似合わない派手なお寺です。
(注)なお、蛇足ですが、昭和38年に起きた吉展ちゃん誘拐事件で、犯人の小原保が吉展ちゃんを殺害し埋めたのが三ノ輪にあるこの円通寺です。ご記憶でしょうか。

黒門には、写真でお分かりのようにたくさんの弾痕の跡がはっきりと残っています。
Sdsc00033 この弾痕は、伏見寺田屋の柱に残る竜馬の撃った弾痕とは違い、完璧な本物であります。
余談ですが、当時の銃創は、弾が大きかったこともあって、殺傷力が中途半端で、撃たれると痛みが激しいことに加えて化膿しやすく長期間治り難かったようです。伏見で襲撃された近藤勇も相当苦労させられていますし、新撰組から彰義隊にただ一人参加した原田左之助は、この上野戦争で被弾し、その傷が元で二日後わずか29才の若さで、かくまわれていた現在の江東区猿江町で、妻子を残したまま亡くなっています。

ここで、その後の上野公園について「番外編」です。

彰義隊と官軍で戦われた上野戦争後、明治維新によって江戸は東京となり、廃藩置県を契機に難民が上野の山に押し寄せ激増しました。増大する難民によって上野公園内に放置されるたくさんの行路病者(行き倒れ)収容のため、明治5年東京府により養育院(現在の都立老人医療センター)が開設されます。明治7年、上野公園内のこの養育院の一部に東京府病院が設立されます。その中のそのまた一部(50床)がはじめててん狂室として運営され、その後東京府てん狂院として精神病者を収容する施設(現在の松沢病院)として独立していきます。

以上のように、彰義隊が壊滅させられたわずか4年後、維新後の混乱の中、行き倒れだらけで酸鼻を極める同じ上野の山で、記念すべき都立病院第一号が産声を上げたのであります。