合理的な愚か者の好奇心

団塊おじさんの "見たぞ! 読んだぞ! 歩いたぞ!"

「文化」という言葉

世の中には「頭の中にイメージを結びにくい言葉」、簡単に言えば「わかりにくい言葉」が星の数ほどあるものなのですが、私の場合、そうした言葉の一つに「文化」があります。

「文化行政」「文化事業」「文化施設」「文化活動」・・・・
通常、どんな言葉でも、その形成過程で(「文化」という言葉の場合は訳語としての形成過程で)、その出自にいかに致命的な錯誤があろうとも、国民の間に実際に使用されているうちに、帰納的に結果として言語のもたらすイメージが、嫌も応もなく定着していくというのが、一般的だと思われます。

しかしながら、この「文化」という語だけは、あまりにも原語との懸隔が大きかったためなのでしょうか、少なくとも私の頭の中では、小学校以来、明確なイメージがいまだに結べておりません。
この場合の原語は「culture」であります。「culture」という言葉は、ごく普通の意味で「栽培する」という意味を含意します。したがって、西洋人には、その語感が充分感得されているはずですから、「culture」の意味がその後多岐に分かれ、複雑化しても、西洋人にとっては、混乱せずに含意が正確に飲み込めるはずです。
ところが、不幸なことに日本語の「文化」には、この「栽培する」とか「育てる」という意味が決定的に抜け落ちてしまうのです。
「文化」という言葉には、本来「民を教化するのに武力を用いない」という意味しかなく、それ以上の意味の広がりを持たせるには、かなりの無理があったのです。
それを「culture」の訳語に強引に当てはめてしまった結果、西洋人が「culture」として使うかもしれない本来の豊潤な意味の広がりが、日本人の場合、のっぺらぼうで何の具体的な語感もないイメージになってしまうのです。

そもそもこのことを気づかせてくれたのは、尊敬する小林秀雄大先生ですが、彼は「文化などという語感というもののない言葉が、でたらめに使われるのも無理はありませぬ」とまで断言しているのです。

今回私は縁あってこの「文化」なるものを対象とする仕事に従事する栄誉を担うことになったのですが、着任以来さまざまな場で「文化 !」「文化 !」と語られるたびに、私はフリーズせざるを得ないのです。
すなわち、その意味ののっぺらぼうさに、ただただ呆然としてしまわざるを得ないのです。
「早く慣れなくては !」と思う今日この頃です。