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勝鬨橋の思い出(隅田川名橋シリーズ)

隅田川に架かる橋のひとつに勝鬨橋があります。

戦いに勝つと、「エイ!エイ!オー!」とかちどきを挙げることがありますが、あれです。明治38年、死傷者4万人とも5万人とも言われた日露戦争の激戦地旅順陥落を祝って、現在地近くに「かちどきの渡し」と称する渡し船の基地が作られたのが、そもそもの由来です。

橋梁自体は、昭和8年着工、昭和15年完成の全長250mの堂々たる跳ね橋です。この橋の最大の特徴は、現存最古の跳開橋で、真ん中の部分(22m)が両側に跳ね上がる構造になっている事ですが、1970年以来35年間開かずの橋となっています。

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昭和43年頃までは、隅田川を大型船が通行できるように1日5回20分づつ開けたとされていますが、その後交通渋滞問題などで閉じたままになっているわけです。

今、この勝鬨橋をもう一度開けてみようという話が出ており、地元では「勝鬨橋を挙げる会」なる運動体までも出来ている模様です。今回の橋を開ける理由は、昔のように大型船を通行させるためではなくて、定期的な人寄せのためのイベントとして、月島や築地と一帯となった観光スポットとして、売り出そうということのようであります。

しかし、橋の管理者の東京都が調べたところでは、モーターをはじめ電気系統をほとんど交換しなければならないことが判明しており、再稼働のためにはなんと8億5千万円が必要なんだそうであります。

このあたりのコストパフォーマンスの分析は、大変微妙なものがありそうです。

ここで、私の勝鬨橋に関わる思い出をひとつ。

時は、私がまだ歩けもしないたった2才の幼児だった昭和20年代半ばに遡ります。

私の母親は、毎日のように私を背中におんぶしながら、当時晴海通りを走っていた都電に乗っておりました。2才の私のかすかな記憶では、その時、母の背中で目をキョロキョロさせている私の目の前に、大きな体のお相撲さんの姿が映りました。

ところが、私がお相撲さんの存在に気がつくとほぼ同時に、都電が突如停止してしまったのです。20分ほどでしょうか、かなり長い時間停車していました。

2才の私としては、お相撲さんがあまりにも体が大きく重かったので、その重みで止まったとばっかり思いこんだのですが、背中から母に聞いてみると「ちょうど、勝鬨橋が上がったのよ」とのことでした。そう言えば、跳ね上がった橋床部分のためか車内が急に暗くなったのを覚えています。

以上のお話は、私と母の記憶を寄せ集めた末の、私が2才の時の思い出なのですが、果たしてわずか2才の幼児にそのような鮮明で詳細な記憶があり得るか否かという問題が、次に残ります。

かの三島由紀夫の随筆によりますと、彼の場合は、生まれた時の産湯が入ったたらいの縁に、電球の光が反射しているのが、まぶしかったという、いわば0才の記憶があるそうです。私の場合は、今でもその時同じ都電に乗り合わせた相撲取りの体の大きさをはっきりと思い出せるような気がしますので、決して幻ではないと思うのですが・・・