合理的な愚か者の好奇心

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発見!! 千葉さな子の灸治院

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今回は、これまでこのブログで何回もご紹介している「坂本龍馬の初恋の人・千葉さな子」についてです。まず、千葉さな子とは誰だったのか、彼女の基本情報からおさらいしてみます。

千葉さな子(千葉佐那)
1838(天保9年)生まれ・1896(明治29年)10月15日59歳で病没
北辰一刀流剣術開祖としてあまりに有名な千葉周作の弟、千葉定吉の二女。
小太刀に優れ、10代の頃に早くも北辰一刀流小太刀の免許皆伝、竜馬より3歳年下であるが、竜馬より強かったという記録もある。
16歳の頃、北辰一刀流桶町千葉道場(現在の東京駅前八重洲口)に稽古に来ていた竜馬と知り合うことになる。竜馬はさっそくこのさな子のことを姉の乙女に美人だと手紙で紹介している。そのころ二人は婚約したらしいが、最終的に結婚には至らなかった。千葉さな子は、竜馬の死を知った後も、竜馬のことを思い続け、一生独身で過ごしたと伝えられている。

千葉家は、維新後離散となり、天涯孤独の身となった千葉さな子は、明治19年、現在の千住仲町(現在の東京都中央卸売市場千住市場近く)に居を構える。生計を立てるため、学習院女子部の舎監となり、舎監以外に小太刀・薙刀も教授し、大変厳しい教師だったと伝えられている。なお、新選組の二番隊隊長斎藤一は、維新後お茶の水の東京女高師付属中学で事務員として女子中学生たちに薙刀を教えていたと伝えられている。奇遇である。
こうして千葉さな子は、千住で千葉灸治院を開業し、生業とした。現在地に残る説明版によると、さな子の死後も「千葉灸治院」として昭和42年ころまで開院されていたらしい。おそらく、千葉家の縁者の方が継続していたと思われる。
こうした都内の旧跡地はほとんどがビルなどに吸収されて原型をとどめていないが、この千葉さな子の「千葉灸治院」は用地が更地として残されている大変稀有な史跡である。
また、場所も大変明瞭で行きやすい。最も簡単に説明すれば現在の都中央卸売市場足立市場入り口近く、日光街道と墨堤通りの交差点の一角。さらに言えば、芭蕉奥の細道出発地のすぐそば ということになる。竜馬ファンは、一度訪れる価値が十分あるだろう。

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上の写真が千葉さな子の若かりし日の肖像写真です。なお、その後最近になりまして、週刊新潮によりまして、「千葉さな子には結婚歴があった」という世にも無粋な情報が2010年ころに飛び交いました。その当時の(2010.12.18)本ブログの記事「結婚していた千葉さな子」を下記に転載します。ご参照ください。

「結婚していた千葉さな子」

本年2月の記事(千葉の鬼小町「千葉さな子」)で、竜馬の婚約者千葉さな子さんは、竜馬との純愛に殉じて生涯独身を守ったと断言しました。しかし、なんと本年7月になって、実は竜馬の死後結婚していたということが、発表されておりましたので、遅ればせながらご報告いたします。よりによって、なぜ今年になるまでわからなかったのでありましょうか[E:sign02] 不思議ですねぇ。

 

さな子さんのお相手につきまして、「週刊新潮」に詳しかったので以下に引用します。

 

さなの父定吉鳥取藩の剣術師範を務めた縁で藩士山口菊次郎と結婚したさなだったが、維新後、山口は東京で魚市場を設立すると称して主家の親戚、旧岡山藩主池田家から預かった出資金を返さず訴えられた。山口の浮気とこの金銭トラブルで、さなは離婚したとみられる。

 

さなは晩年、現在の千住市場の近くで家伝の針きゅうを開業して自活していたそうですが、はたして夫の詐欺話と関連はあるのでしょうか[E:sign02]
それにしても、さな子の骨を分骨してお墓を建て、墓石の後ろに「坂本竜馬室」と刻印してまで弔った山梨県の民権運動家小田切謙明さんはこの辺の事情を知っていたのでしょうか・・・



最後に、問題の「千葉さな子の千葉灸治院」の現況写真をご紹介します。


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上の写真は昭和43年ころの(営業中の) 千葉灸治院


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