合理的な愚か者の好奇心

団塊おじさんの "見たぞ! 読んだぞ! 歩いたぞ!"

江戸を歩く 猿子橋の仇討

Ssarukohashi
写真は、現在の猿子橋跡。大きな木の左側が、旧六間堀を埋め立てた地域で、居眠り磐音の住む金兵衛長屋があった。


Sarukobashi

最近、江戸の古地図を広げながら、時代小説の世界にひたるのを趣味に加えることにした。
江戸時代は、隅田川の東西に都市が広がっていたわけだが、どういうわけかどの時代小説作家も隅田川の東、とりわけ深川の地を舞台にしている。どうやら、この理由は、深川一帯が武家地と町人地そして寺社地が混在しており、変化に富んだ舞台設定が可能であることによるようだ。

そして、本日の舞台は、佐伯泰英原作、山本耕史主演の「居眠り磐根」の世界である。
まず上の地図を説明すると、左側に大きく南北に蛇行しているのは、当然隅田川
東側に南北に走るのは、六間堀。六間堀に面して、深川丼が人気の料亭「みや古」は今も健在である。六間堀を挟んでみや古の向かい側に金兵衛長屋があり、そこいらへんに居眠り磐根が住んでいたようである。
六間堀は江戸の水運の大動脈の小名木川のちょうどいい支流として水運船の係留所として、機能を立派に果たしていたと思われる位置関係にある。しかしながら、この六間堀、関東大震災後の瓦礫の処理地として、一気に埋め立てられる。これが東北大震災ではできなかった便法である。地図の南、猿子橋周辺の常盤一丁目や二丁目を探しても説明版はないものの、道路の太鼓橋風盛り上がりの面影をしのべば、当時の瓦礫のすさまじさが、思われる。
こぼれ話その一。
江戸時代の新大橋は、地図の通り、現在の新大橋よりも、大分下流に架けられていた。これは昔の新大橋のほうが、隅田川の川幅が狭くて湾曲しており、架橋がしやすかったものと思われる。したがって、当時猿子橋があった現在の芭蕉庵通りの方が、今の新大橋通りより相当にぎやかだったはずだ。なお、芭蕉庵通りを東に進むと「のらくろ-ど商店街」がある。
こぼれ話その二。
深川丼で有名な「みや古」、夜行くとわかるがおっそろしく店の中が暗い。江戸時代と同じ照度ではなかろうか・・・
こぼれ話その三。
NHKで居眠り磐音をさっそうと演じていた山本耕史。実は、小生、たまたま江戸東京博物館のトイレで行き合い、ツレションをするという幸運に預かっている。

最後のこぼれ話。猿子橋の仇討。
今は昔をしのぶ表示板すらないほど、無視された猿子橋。
実は、江戸時代は女仇討の舞台として、有名だったらしい。
取り上げて有名にしたのは、ご存じ三遊亭円朝作の人情噺「敵討ち札所の霊験」。
舞台は寛政10年10月、江東区深川猿子橋あたりで、山崎みき・はるの母娘が、彼女らの夫であり父である彦作の仇、崎山平内を討った。娘はるの許嫁平井仙龍の助太刀は仰いだものの、花も恥じらうの婚約者18歳のはるが評判を呼んだ。瓦版では、仇平内の首を打ち落とし、助太刀仙龍にも褒美を賜ったと伝えられているが、実際には大勢で止めに入ったため、山崎母娘は本懐を遂げえず、仇平内は破傷風で16日後に死亡、助太刀仙龍はその四日前に癪気で死んでいる。平内の傷はおそらく仇討による傷と思われるので、やはり本懐を遂げたとしてよろしかろうと思われる。

今、人気の「女プロレス」「女相撲」、最近は「女ボクシング」も人気。
昔も今も定番らしい。